カート・フラッドの歴史的闘争を支えたロベルト・クレメンテ

1969年12月13日、MLB全体の選手代表がプエルトリコに集まり、MLBPAの年次選手執行役員会議が開催された。この年は労使交渉の年でもあり、会議では選手たちの待遇改善が主な議題となった。最低年俸を1万500ドルへ引き上げることや、食事手当の日額を15.50ドルへ増額することなどが求められていた。当時の組合はまだ発展途上にあり、選手たちの権利向上は一歩ずつ積み重ねられていた。
労使交渉に関する報告が終わると、話題は当時の球界最大のニュースへと移った。セントルイス・カージナルスの外野手だったCurt Floodは、その2カ月前にフィラデルフィアへのトレードを拒否し、選手を半永久的に球団へ拘束する保留条項(Reserve Clause)への挑戦を始めていた。Floodの訴えは非常に力強く説得力のあるもので、MLBPAの選手執行役員会は25対0の満場一致で彼を支持することを決定した。Floodは最終的に1972年の連邦最高裁判決で敗訴したものの、その先駆的な挑戦は選手とオーナーの力関係を変える大きな転機となり、3年後のフリーエージェント制度実現への道を切り開いた。
プエルトリコの中心部にあるシェラトン・サンフアンの会議室で、Curt Floodの歴史的な挑戦を後押しした人物の一人がRoberto Clementeだった。Clementeの言葉と圧倒的な存在感は、Floodを歴史へと導く大きな力となった。
初年度資格で米国野球殿堂入りを果たしたClementeは、数え切れないほどの功績を残した球界の象徴的存在だ。15度のオールスター選出、首位打者4回、ゴールドグラブ賞12回、1966年MVP受賞と、その実績は傑出している。卓越した打撃力や守備力、走力に加え、人を惹きつける魅力を兼ね備えた選手だった。また、プエルトリコ出身であることに誇りを持ち、人道支援活動にも尽力したことで知られている。Clementeはかつて、「人を助ける機会があるのに、それをしないのであれば、この地球で生きている意味はない」と語った。その信念を最後まで貫いたClementeは、1972年12月31日、ニカラグア地震の被災者へ救援物資を届けるため搭乗した飛行機がプエルトリコ沖で墜落し、帰らぬ人となった。

輝かしい実績の陰で、Clementeは人と人を結びつける存在でもあった。社会のさまざまな立場の人々やチームメートと分け隔てなく関わることができ、その資質はクラブハウスの中でも大きな影響力を持っていた。選手会創設期には、そうした人望と求心力によって、ClementeはMLBPA初代専務理事Marvin Millerにとって信頼できる重要な協力者となった。
1968年、後に殿堂入りを果たす投手であり、選手の権利擁護にも尽力したJim Bunningがトレードでパイレーツに加入した。当時はBunningがピッツバーグの選手代表に就くのが当然と見られていたが、Bunning自身がClementeを推薦し、Millerもこれに同意した。Brad SnyderはCurt Floodの伝記『A Well-Paid Slave(高給取りの奴隷)』の中で、MillerがClementeやReggie Jacksonのようなマイノリティの選手たちが組合運営で重要な役割を担うことの意義を理解していたと記している。
「Marvin Millerは、自分が目指す方向へ進むうえで、誰が力になってくれるかを見抜く非常に鋭い人物だった」と語るのは、1964年から72年までパイレーツでClementeとともにプレーした親友のSteve Blassだ。
「選手たちはみんなRobertoを尊敬していたし、Marvinもそれをよく分かっていた。Clementeが多くの人々の考え方や価値観に影響を与えられる存在だと知っていたんだ。実際、今でも他球団からピッツバーグに来た選手たちは、試合後にバスでClemente Museumを訪れることがある。それほどまでに彼の影響力は今なお残っている」
「まして現役時代のRobertoの影響力は絶大だった。特にメジャーリーグでプレーするラテン系選手たちにとってはなおさらだ。彼が話そうと言えば、断る選手はいなかっただろう。誰もが耳を傾けたはずだ。だからこそMarvinも、Robertoの存在が組合にとって大きな力になると確信していたんだ」

FloodとClementeが歩みを共にするようになったのは、ある意味で必然だった。二人には、恐れず信念を貫く姿勢と、強い社会的使命感という共通点があった。両者とも公民権運動の指導者であるMartin Luther King Jr.と親交があり、その活動に大きな影響を受けていた。1968年4月にKingが暗殺されると、Clementeとパイレーツのチームメートたちは、その功績に敬意を表して試合出場を拒否。この行動を受け、MLBはシーズン開幕を2日間延期し、Kingの葬儀に配慮した。
Floodが慣習に異を唱え、球界の既存秩序へ挑戦する決断を下したとき、Millerや一部の選手仲間からは、将来のキャリアを危険にさらす可能性があると警告された。それでもFloodの決意は揺らがなかった。
「ある会合で、Marvinは当初、Curt Floodに保留条項への挑戦を思いとどまるよう説得しようとしていた」と振り返るのは、選手会の初期にブレーブスとレッズで選手代表を務めたWoody Woodwardだ。
「Marvinは『これは良い結果にならないかもしれない。たとえ勝訴しても球界から締め出される可能性があるし、二度とプレーできなくなるかもしれない』と話していた。それでもCurtは『これは間違っている。最後までやり抜く』と答えたんだ」
カージナルスで選手代表を務め、その後はメジャーリーグのコーチやGMも歴任したDal Maxvillは、2022年にMLBPAのインタビューでFloodが背負ったリスクをこう表現している。
「彼は最初に丘を越えた開拓者だった。そして最初に丘を越える開拓者は、たいてい矢を受けるものなんだ」
その警告は現実のものとなった。Floodは31歳までにオールスター選出3回、ゴールドグラブ賞7回を誇る名選手だった。しかし、その後メジャーリーグでプレーしたのは1971年のワシントン・セネタースでの13試合のみ。33歳でユニフォームを脱ぐことになった。
Clementeにとっても、Floodの闘いは決して他人事ではなかった。ラテンアメリカ出身のスーパースターとして、Clemente自身も数多くの偏見や不当な扱いを経験してきたからだ。野球カード会社は彼の名前をアメリカ風に変え、「Bob Clemente」と表記した。また、メディアは彼の強いアクセントのある英語を、見下すような形で取り上げることも少なくなかった。さらに、キャリアを通じて毎年140試合から150試合前後に出場していたにもかかわらず、記者たちは慢性的な故障ばかりを取り上げ、「病気を気にし過ぎる選手」といったレッテルを貼ることもあった。

Snyderが著したFloodの伝記『A Well-Paid Slave(高給取りの奴隷)』には、1969年にシェラトン・サンフアンで開かれた会議で、Clementeがいかに熱心にFloodを支持したかが記されている。Clemente自身も、保留条項による束縛を身をもって経験していたからだ。
Clementeは1954年、ニューヨークでプレーしたいという希望から、ミルウォーキー・ブレーブスから提示された3万5,000ドルよりも低い条件でブルックリン・ドジャースと契約した。しかしその後、Rule 5ドラフトで最下位に低迷していたパイレーツにわずか4,000ドルで指名され、ドジャース傘下のトリプルAから保有権を移された。Clementeは自由の身になるためにその金額を返すと申し出たが、パイレーツGMのJoe Brownは認めなかった。
「彼らは私を支配していたんだ」
San Juanで選手代表たちに向けて、Clementeはそう語ったという。Snyderによれば、ClementeはMLBPA選手執行役員会で「パイレーツは私によって30万ドルを稼いだ」とも訴えた。当時としては決して小さくない金額だった。ちなみにBaseball Referenceによると、Clementeの現役通算年俸は80万ドルにも満たなかったと推定されている。
1969年の選手執行役員会議には、球界を代表する顔ぶれが集まっていた。選手代表には後の殿堂入り選手5人(Clemente、Bunning、Reggie Jackson、Brooks Robinson、Joe Torre)が名を連ねたほか、後の監督2人(Torre、Phil Regan)、後のGM3人(Tom Haller、Dal Maxvill、Woody Woodward)、後の殿堂入り放送アナウンサーTim McCarver、さらに複数のサイ・ヤング賞受賞者も参加していた。
会議の議事録には、Floodの訴えを選手たちが慎重に検討した様子が残されている。Floodは、自らの行動がカージナルスからより良い契約を引き出すための交渉戦術ではないことを強調した。オーナー側が保留制度の大きな不公平を是正しようとしない以上、選手とオーナーの関係をより公平なものにするために行動を起こす必要があると考えていたのだ。また、自身の立場によってオーナーから個人的な攻撃を受けたり、今後のキャリアが危険にさらされたりする可能性も理解していると語った。
「Curtはフリーエージェントになる権利を求め、自ら先頭に立ってすべてを背負う覚悟だった」と振り返るのはJim Lonborgだ。
「彼は誰かに助けを求めたわけではない。ただ、自分の考えを伝えたかっただけなんだ。自分が不正だと思うことに立ち向かう強さと信念を持っていたことに敬意を表したい。今振り返っても、あれは確かに不公平な制度だったと思う」
選手執行役員会は満場一致でFlood支持を決定し、その立場を公表するとともに、最良の法的支援を受けられるようサポートし、必要に応じて訴訟費用などの経済的支援も行うことを決議した。この決定はFloodの保留条項への挑戦を後押ししただけでなく、選手会、そしてスポーツ労働運動全体にとって大きな転換点となった。その後、1972年には年金制度を巡る争議でMLB選手がストライキを実施し、1975年にはPeter Seitz仲裁人がAndy MessersmithとDave McNallyの訴えを支持。フリーエージェント制度への道が開かれることになった。
「Marvinの指導の下で、私たちは少しずつ成果を上げ始めた」とWoodwardは振り返る。
「最低年俸の引き上げも大きな前進だったし、遠征時のファーストクラス移動も大きな成果だった。そして成果が増えるたびに、選手たちは『これも取り上げるべきじゃないか』『Marvinと話してみよう』と言うようになった。選手会が着実に成長しているのを感じたよ。
そして1969年の会議でCurt Floodの考えを聞いた時、誰もが『なんて立派な人物なんだ』と思ったはずだ。彼はキャリアを危険にさらす大きな決断をしていたが、それが球界全体に大きな影響を与える可能性があった。そして実際、その通りになった。あれもまた選手会の成長の一歩だったし、Marvinが常に目指していたことでもあったんだ」
1970年代初頭、プエルトリコのウインターリーグでClementeとチームメートだったLonborgは、見出しや報道だけでは伝わらないClementeの素顔を知る機会を得た。そこには、他者への思いやりと強い信念を持つ一人の人間としてのClementeがいた。そしてその姿勢こそが、あの歴史的な会議でFloodを支援する原動力となった。
「Robertoは特別な存在だった」とLonborgは語る。
「彼は何が正しくて何が間違っているかを理解していた。そしてCurtが正しいことも分かっていたんだ。おそらくマイナー時代からメジャー時代にかけて、自分自身もさまざまな不公平を経験してきたのだろう。だからこそ、私たち全員が正しい方向を向いていることを理解していたんだ」

Clementeのチームメートたちが語る数々のエピソードは、今もなお家族やプエルトリコの人々の誇りとなっている。RobertoとVera Clementeの3人の子どもの次男であるLuis Clementeは、1969年の歴史的な選手執行役員会議が開かれた当時まだ3歳だった。しかし年月を重ね、多くの証言や記録に触れる中で、父とCurt Floodの間にあった強い絆の意味を深く理解するようになった。
Luisにとって、父とFloodがともに背番号21を着けていたことは象徴的だ。二人の「21」を合わせると、Jackie Robinsonの背番号である42になる。野球史に名を刻んだ3人は、信念のために声を上げ、「ノー」を受け入れなかったという点で通じ合う存在であり、今も多くの人々の模範となっている。
「サンフアンでのあの会議は、Curt Flood個人の勇気が、選手会全体の責任へと変わった瞬間でした」とLuisは語る。
「父は、ラテン系選手やアフリカ系アメリカ人だけでなく、すべての人が平等に扱われるべきだという考えを強く持っていました。父にとって人種の違いに意味はありませんでした。誰もが同じ人間であり、それこそが父の人道主義者としての姿を表していると思います」
「Curt Floodは、自らのキャリアを犠牲にする覚悟で行動しました。それが自分自身のためだけでなく、ほかの選手たち、そして将来の世代のためになることを理解していたからです。その影響は野球界にとどまらず、スポーツ界全体、さらには社会全体へと広がっていきました。
大切なのは、自分に与えられた発言力をどう使い、その立場をどのように人のために生かすかということです。その点でCurt Floodはもちろん、父もまた特別な存在でした。父は特別扱いを求めたのではありません。ただ、ほかの人たちと同じように扱われることを求めただけです。その違いはとても大きいのです」

